2004年08月12日

日航123便

日航機墜落までの航跡
(注意)ななこは聞いたことが無かったら見ないように。フラッシュになっているが、ポップアップブロッカーを使っている人は解除しないと新規ウィンドウが立ち上がらない。

毎年八月になると思い出すのが広島・長崎の原爆記念日と終戦記念日、それともう一つが1985年8月12日に御巣鷹山に墜落した日航123便だ。この年は阪神が悲願の日本一を約20年ぶりに成し遂げた年でもある。

JAL123便は羽田から大阪に向かう大島上空で突然の爆発とともに機体の垂直尾翼をほとんど失い、コントロール不能のまま約30分飛行を続け、クルーの懸命の努力も報われぬまま最終的には520名の犠牲者を出した。この犠牲者の中に歌手の坂本九さんがいたというのは記憶している人も多いはずだ。事故後15年経ってからボイスレコーダーの内容がマスコミから発表されたが、これは正式なボイスレコーダーの記録ではなく、ところどころ抜けている。それが政治的配慮とも言われているが、いまだこの事故には謎が多い。事故調査委員会の調査報告があまりに杜撰な事、事故原因のもっとも重要な手がかりとなるボイスレコーダーの記録の公表がなされず、事故から15年たってからコピーされたものが流出したこと、当時の運輸省が事故に関係する調査報告書を保存期限が切れた事を理由に全て処分してしまっていること、事故の原因が圧力隔壁の破壊に伴う垂直尾翼の損壊及び油圧制御システムの不能とされたが、それを具体的に裏付ける機内の状況が生存者の証言から無かったこと、その他にも自衛隊の救助が遅かったりと不自然な点が多々あり、自衛隊の無人標的機が誤ってぶつかったものだとか、あるいは自衛隊機そのもののによる誤爆だとか、いろいろな憶測がなされている。冒頭のリンクはコックピット内の会話と管制塔との通信などが時間ごとに表示されていて、当時の機内の様子が生々しく見て取れる。ボイスレコーダーの内容は数年前にテレビで放送されたので覚えている人もいるかと思うが、操縦桿による操作が出来ない状況で最後まで諦めずに操縦を続けたパイロットの死闘や事故機の中で状況もわからずにダッチロールの波にもまれながら不安な状況に置かれた乗員や乗組員などのことを考えると、何度聞いても胸を締め付けられる思いがする。パイロットも航空機関士も垂直尾翼が殆んど無くなっていることなど予想だにしていない。ましてや乗客は尚更だろう。

この事故に関しては本当の事故原因を究明して今後の事故防止に努めようという意識より、とにかく事実を隠蔽しようとする思惑が色濃く見えるのである。もちろん原因はなんであれ亡くなった人は帰っては来ないし、面白半分でそれを考えるのは亡くなられた方の御霊にも失礼だろうと思う。この事故は当時の社会情勢を踏まえて考えだすとキリが無い。それだけ不可解で謎に満ちている。ただ、もし真実を語る人間がいたならば、それが一番の供養になるとも思うのだが。

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Comment on "日航123便"

あれから、19年も経ったんですね。
当時の私は小学6年でした。
今でも覚えています。テレビで焼け焦げた機体が写る中、生き残った少女がヘリで釣られて救助される姿を。
「日航機墜落までの航跡」これ、凄いですね。怖くなりましたが、最後まで見ました。
夏って残酷な事件・事故が多くないですか?胸が痛いです。

ちょっとまだ心臓ドキドキ(苦笑)

  •   LC
  • 2004年08月13日 00:26

(・Θ・ゞ)スチャッ!!

思えば、わたしが初めて人前でパニくったのは、
原爆資料館でした・・・。
(*゜-゜)…トオイメ

  •   ななこ
  • 2004年08月13日 09:00

この当時すでに成人していたんだよな。特に夏に多いのかどうかわからないけれど、確かに暑さできれる人も多いのかもしれないな。今年は大雨でかなりの被害も出ているし。原爆資料館の館長してた人は宇宙戦艦ヤマトを怒っていたな。戦争体験者はやはり見過ごせなかったんだろうな。

  •   ten
  • 2004年08月14日 06:10

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